その増田さんの学生時代のエピソード。
中学時代、軟式テニス部に入っていて、テニスは弱かったんですが、陸上の試合に出されたら、800mで全国で4位になっちゃったんです。
それで成田高校の滝田先生に勧誘されたわけです。それまで高校で陸上をやるつもりはなかったんですが、
「俺と一緒に富士山のてっぺんに登ろう」
と言われて、その一言で成田高校に行く決心をしました。
ところが、そこからうまくいかなかったんですよ。1年のインターハイが終わった頃に貧血になって、全然走れなくなったとき、滝田先生に「マネージャーをやってくれないか」って言われました。「いやです」って即答でした。
あんなに誘ってくれながら、半年でマネージャーなんて言い出す先生が許せなくて、実は陸上部をやめたんです。
それまで、先生の家に下宿していたんですが、実家に帰りました。高校も実家に近い県立の長生高校に編入しようとしたんですが、私立高校からの編入は無理ということで、仕方なく片道2時間半かけて通い続けましたよ。
陸上部に復帰したのは2年生になってから。コロコロに太ってました。あまりに走れないので、基礎からやろうということになって、フォームを徹底的に直すことになったんです。横に振っていた腕をきちんと後ろに引くようにして、着地はかかとからというのが、フォーム改造のポイントでした。
その年の夏、千葉県選手権の800mで最下位になってしまった。それがすごく屈辱で、メソメソ泣いていたら、長生高校の関谷守先生が声をかけてくれたんです。
「増田さん、転んだら何かをつかんで立ち上がらないと」と言ってくださったのをよく覚えてますね。その一言がきっかけでした。
それで、その秋から秘密練習を始めました。練習は朝練習と午後の本練習があって、本練習が終わるのが6時半。成田駅の電車の時刻に合わせてあって、着替えて駅まで歩いて行くと、ちょうど電車に間に合う。
私は、練習が終わってから電車に乗るまでの時間、ここが勝負だと思いました。それで、本練習が終わってから自分の教室に行って、息つく暇もなく暗い中で腹筋300回、背筋100回、バービー50回、腕立て伏せ30回を一気にやるんです。それから駅までの1.5kmを全力で走ってました。制服を着たままですが、とにかく全力なんです。毎日タイムを計ってましたから。
そんな練習をしていたことは、誰も知りません。一度だけ守衛さんに見つかって、懐中電灯で照らされたことがありましたけど、「誰にも言わないでください」ってお願いして、結局、誰にも知られずに済みました。
そんな頃の私の練習日誌がすごいんです。
「今に見ていろ」
しか書いていないんですから。それも、殴りつけるような文字で。滝田先生を見返してやりたい、陸上部で一番目立つ選手になりたい、という気持ちだったんですね。それだけが支えだったんです、きっと。
『マラソン最強伝説』
(ベースボール・マガジン社 平成12年出版) 89~91頁引用